大町桂月(おおまちけいげつ)が交流の縁結び

2010年4月1日

「大町桂月」先生

十和田湖のすばらしさに感動し、全国に紹介した人がいます。その人は、四国 高知県土佐町の近くの高知市で生まれた、明治の文人「大町桂月」先生です。

 

 

 桂月が初めて十和田湖を訪れたのは、明治41年8月下旬です。三戸郡五戸町出身の鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)氏が「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい」と誘ったことにはじまります。初めて十和田湖を見た桂月は、十和田湖の雄大さや、自然の美しさに感動し、雑誌「太陽」に紀行文を発表して、当時まだ世に知られていなかった十和田の魅力を紹介しました。「山は富士 湖水は十和田 ひろい世界にひとつずつ」「住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」の歌や「・・・十和田湖は天下無双なり。『山は富士 湖は十和田』といいたるついでに『渓流は奥入瀬』・・・」などと紹介し、十和田の名声は、全国に知られるようになりました。そして、桂月は、なかでも蔦(つた)の仙境をこよなく愛し、10度ほど来県していますが、そのうち蔦温泉には2度の冬ごもりをして、戯画と歌の「蔦温泉帖(つたおんせんちょう)」「冬籠帖(ふゆごもりちょう)」などを残しています。大正14年3月には、蔦温泉に本籍を移し、5月に堅雪の八幡岳登山を果たしましたが、6月10日に青葉もえる蔦で56歳の生涯をとじました。蔦にある桂月の墓の前には、辞世の句「極楽へ越(こ)ゆる峠の一休(ひとやす)み 蔦の出湯(いでゆ)に身をば清めて」が刻まれています。
 十和田湖は昭和11年2月1日に国立公園に指定されましたが、桂月はこの指定にも尽力され、大正12年に起草した「十和田湖を中心に国立公園を設置する請願」の請願文は、政府関係方面に大きな反響をよび、指定の気運を大いに高めました。そして、亡くなる一月(ひとつき)前には「十和田国立公園期成会趣旨書(しゅししょ)」を執筆しています。
 武田千代三郎県知事、小笠原耕一村長とともに十和田開発の三功労者の一人に数えられ、彼らの功績をたたえるために、昭和28年10月、国立公園指定15周年を記念して、顕彰碑「乙女の像」が十和田湖畔の休屋(やすみや)に建てられました。

 十和田市立三本木小学校・藤坂小学校・法奥小学校の校歌は、桂月の友人で、一緒に蔦温泉で冬ごもりをした「児玉 花外(こだま かがい)」が作詞していますが、当初は、桂月に依頼のあったことが明らかになっています。花外は、日本三大校歌といわれる明治大学の校歌も作詞しています。
 また、十和田市立沢田小学校の校歌は、同じく桂月の友人で、東京帝国大学在学中に創刊された「帝国文学」編集の仲間である「竹島 又二郎(たけしま またじろう)(本名)」(竹島 羽衣(たけしま はごろも))が作詞しています。羽衣は、合唱曲として名高い「春」の作詞者でもあります。
 このように、桂月は、市内数箇所の小学校 校歌の作詞にもかかわりが深かったということがわかっています。

 

桂月のペンネームについて … 本名芳衛、月の名所として名高い郷里、四国高知の桂浜の月を想い、「桂月」と号しています。

 

 「冬籠帖」「蔦温泉帖」 蔦温泉帖より

                                        蔦温泉帖より

 

   大町桂月と桂月夫人

          大正13年蔦温泉で 大町桂月と桂月夫人(左から4・5人目)

 

大町芳章氏監修
(大町芳章氏は、大町桂月の孫)

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