旧「十和田湖町」の歴史

上代、この地は陸奥と呼ばれ、三代の栄華 を極めた平泉 藤原氏の滅亡後、源 頼朝は、各地に御家人を置いて支配に当たらせました。この折り、糠部郡の地頭として、現在の三戸に赴任してきたのが、南部 氏の租といわれる三郎光行であり、以来、この地方を南部と呼ぶようになったといわれています。

藩政時代、十和田湖町は南部藩に属し、享保20年(1735年)の代官所設置に伴って、奥瀬・沢田地区は五戸代官所に、法量地区は七戸代官所の総括下に置かれ ました。そのため奥瀬・沢田地区の山間の生活に対して、法量地区では海の産物を取り入れるなど、異なった生活様式を持ち、地形的にも隔絶した状態で、維新 までの各々の歴史を辿ることになります。

明治4年の廃藩置県によって三地区は斗南県に編入となり、12年に法量村・奥瀬村・沢田村として独立し、三か村を管轄する戸長役場が設置されました.。16年 には、行政区画が改められて、官選戸長を置くこととなり、三か村を合併。第十四組長戸長役場と改称されました。さらに18年には、沢田村外二か村戸長役場 と改称され、沢田村に当時としては珍しい和洋折衷様式二階建ての庁舎が新築されました。

明治22年、町村制が施行され、三か村の頭文字をとって「法奥沢村」と名付けられました。現在の町の原型が誕生したのです。この機に、自治制が施行され、同年 5月、初めての選挙を執行。初代名誉村長の和島 源吉郎氏と村会議員が選出され、さらに、27年には、役場が現在の小沢口へと移転されました。

 

旧「十和田湖町」の誕生

十和田湖

明治末から大正、昭和にかけて、十和田湖の名が全国的に知られるようになり、それにつけ て、法奥沢村では、住民や関係者の中から、村名に不便を感じ改称を望む声が高まってきました。そのため、大正11年、小笠原 耕一村長は、村議会に、村名を 「奥入瀬村」に改称する理由書を提出。原案通り可決しましたが、この時は現実には至りませんでした。

次いで昭和6年、小笠原 奥治村長によって、「十和田 村」への村名改称議案が提案されました。この時は、南津軽郡や秋田県にも、「十和田」を村名に希望する自治体があり、改称を急ぐ必要に迫られていたので す。6月と8月の会議で重ねて審議され、17名出席中、6名の反対者があったものの、賛成多数で可決され、同年9月、正式に村名を改称し、「十和田村」が 実現しました。

昭和11年、十和田湖・奥入瀬・八甲田などを含む地 域が「十和田国立公園」に指定され、これに伴って村は発展の一途をたどります。そこで昭和30年、村の充実ぶりを実感した太田 豊実村長は、議会に町制施行 を提案。1名の反対者があっただけで可決され、同4月1日、「十和田町」が誕生しました。

しかし、周囲には青森県内にある、十和田市、秋田県 の十和田町、そして本町と「十和田」と名のつく自治体が近隣に三つもあったことによる種々の問題が出ていたことから、町では、昭和50年に、町制施行20 周年という節目を迎えるのを機に、「十和田湖町」と町名を変更し、新たなる一歩を踏み出しました。

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