十和田市は安政6年(1859年)に新渡戸傳翁によって拓かれた「若いまち」で、青森県東南部、秀峰八甲田の裾野に拓けた緑の三本木原台地の中央部に位置し、国立公園「十和田湖」の東玄関として知られています。
また、ここ南部地方一帯は、遠く平安・鎌倉時代から多くの名馬を輩出しており、十和田市でも、藩政時代の文久3年(1863年)に馬市が開催されて以来馬セリで賑わい、明治17年には軍馬育成所(後の軍馬補充部)も開設され、馬産地としても知られていました。
稲生川は、十和田市開拓の祖新渡戸傳翁が、不毛の原野であった三本木原台地に奥入瀬川から上水した人工河川です。
三本木原は奥入瀬川より30mも高いため、上流から の上水工事が必要でしたが、安政2年に工事に着手し、熊の沢~矢神、法量~段の台の2つの穴堰約4460m、さらには三本木(現在の十和田市)までの堰約 6147mを堀り上げ、約4年の難工事のすえ、安政6年(1859年)に第1次上水に成功しました。この用水路は南部藩主利剛公により「稲生川」と命名さ れました。
稲生川上水に成功したあと、さらに第2次上水工事が着手されました。この時掘られた穴堰(トンネル)は、第1次工事の2つの穴堰に続く第3の穴堰にあたりましたが、慶応3年(1867年)未完成のまま中断されました。
このためか、この穴堰は「幻の穴堰」と呼ばれています。
稲生川の穴堰は、急斜面の断崖に横穴を点々と開け、 崖の腹中で横穴同士を結ぶ水路を上流下流同時に掘り進んでいく方式で、非常に高度な技術を使っています。この「幻の穴堰」は、130年の歳月を経た現在で も採掘の跡が残されており、当時の農業土木技術の跡を見ることができます。
明治18年の陸軍軍馬局出張所開設以来(明治29年軍馬補充部三本木支部と改称)昭和20 年の解体まで、約60年の長きにわたり町の発展に寄与しました。およそ1700頭強の馬を有し、軍馬の育成に意を注ぎましたが、軍馬が高価で買い上げられ たことから産馬熱を高め、馬のまち三本木として活況を呈しました。
終戦後の解体により、十和田市はここを基礎として新たな都市計画づくりを促進していきました。
十和田市の市街地は、「碁盤の目」に整然と区画された「美しいまち並み」が特徴であり、「平等と民主の精神」の元に形成された「格子構造」のこの都市計画こそ「近代」都市計画であり、十和田市がそのルーツと言われています。
同じ「格子構造」を持つまちとしては札幌市が有名で すが、三本木町(十和田市)は安政2年(1855年)に建設が始まっており、一方札幌市は北海道が松前藩の領下にあった頃、幕府が会津六藩に保護・奨励を 加えて開拓を促進させたことに始まったと考えられています。ただし、その計画は達成されず、実際には明治新政府の開拓使によって推進(明治2年・1869 年)されました。したがって、三本木町(十和田市)の建設は札幌のそれよりも14年早いことになります。